二胡の歴史 (各種の文献から引用したものです)

「胡」という文字は、中国では「北方の異民族」または「西方の異民族」を指す言葉です。「二胡」は中国発祥の楽器ではなく
シルクロードを通って伝来した楽器であろうというのが現在有力な説です。では、まず擦弦楽器の歴史をたどってみましょう。

擦弦楽器は、紀元前にインドあたりで発生しました。紀元後になるとアラビア半島で盛んに使用されていたようです。
この楽器は「ラバーブ」とか「レバーブ」という名称でした。その後、半島を中心として、イスラム教の発展に伴い、東西に
広まります。西に広まったものは、今日のヴァイオリンとなりました。そして東には、三弦系がインド、東南アジア、中国南部、
琉球、日本へと広まります。二弦系は中央アジア、中国へと広まりました。

この二弦系の楽器は、木ないし竹の円筒形胴を持ち片面を皮(にしきへび)で張るものと、木の実などを半分に割ってその面に
皮とか薄い板をかぶせるものの二種類で、前者を「胡琴」、後者を「提琴」・「椀胡」・「椰胡」などともよびます。
中国で初めて擦弦楽器が歴史に登場するのは、唐代(618−907)とされています。この時はまだ、ねかした弦楽器を棒でこすり
音を出していました。この楽器は「軋箏」(あつそう)といいます。このころ「胡琴」という言葉は琵琶類を指していたようです。

けいきん宋代(960−1279)に入ると、ようやく立てて弾く「二胡」の原型が登場します。11世紀後半の文献「事林広記」に、その
「奚琴」(けいきん)という楽器についての記述があります。竹の棹、竹のスティックで擦るという楽器でした。また南宋の陳暘著
「楽書」にはその図(右図参照)も記されています。そして、北宋の沈括著「夢渓筆談」第五に、11世紀の終わり頃、北西部の辺境に
駐屯していた軍隊の間で、馬尾の毛で擦る楽器が流行していたと書かれています。

麟堂秋宴図元代(1127-1279)には初めて二弦で弓を用いて弾く楽器として「胡琴」の名が登場、明代(1368−1644)に入ると、
現在の形状にかなり近づいた楽器が絵画(尤子求画:「麟堂秋宴図」左図参照)に見ることができます。
明代末、清代(1644-1912)になると、「胡琴」は各地方劇と大衆芸能の発展につれてその伴奏に使われるようになり、中国全土に
広まっていきました。形も各地方の音楽の特徴を表現する必要があったために改良がなされ、様々な胡琴が誕生しました。
よく知られているものでは、京劇の「京胡」、広東省粤劇の「高胡」、陝西省秦腔の「板胡」、江南地方の「南胡」等があげられます。
この「南胡」が中国全土に広まり、後に呼び名が「二胡」とかわっていきました。
20世紀に入り、中国にも西洋音楽が流入します。1920年代には、劉天華(1895−1932)によりヴァイオリンの奏法を取り入れた
新しい演奏技術が生まれました。また彼は、初めて音楽学校の正式な課程として二胡の専攻科目を設け、多くの独奏曲を作曲しました。
伴奏楽器であった二胡は独奏楽器としての地位を確立していきました。

1950年代に入ると楽器の改良が進みます。それまで絹でできていた弦を金属に改良、音量も大きくなりました。その他にも、全体に
渡って様々な改良が加えられました。また、この頃には独奏曲も数多く作曲されました。
文化大革命(1966-1976)の間は民族音楽も軽視されたために大学が封鎖されるなどの状況にありましたが、終結後は地方の音楽大学
でも演奏家の育成に力がいれられるなど、より一層の演奏家の技術の向上がみられるようになりました。それに伴い、大曲の完成、
また民族音楽だけでなくクラシックやポピュラー音楽も演奏されるようになり、現在に至っています。


劉 天華 りゅう てんか (1895〜1932年)

二胡を独奏楽器として確立した音楽家。

それまで舞台の伴奏等で演奏されていた二胡を楽器の構造を改良したり指導方法を体系化するなどして
二胡の普及に努め数多くの練習曲や、後に(二胡の)「十大名曲」といわれる名曲を作曲しました。

1895年2月4日江蘇省江陰市に生まれた。兄弟三人とも中国文化史上の有名人であった。
兄の劉半農は新文化運動に参加、有名な文学作者、国語学者だった。弟は後の二胡奏者劉北茂である。
劉天華は中学時代から西洋楽器を習い始め、
1912年に上海のプロ楽団に加入し、音楽理論やピアノ、バイオリン、銅管楽器などを勉強し始めた。
1914年、故郷に戻り、中学校で音楽教育に従事。
1915年、父親を亡くし、悲しさの中、デビュー作『病中吟』を作った。音楽を用いて社会に対する不平
不満を表わし音楽創作の道を踏み出した。

中国の伝統音楽を勉強するため民間芸人を訪問し、当時の有名な民間音楽家に二胡や琵琶、洋琴などの
民族楽器を習った。中国の民族音楽を振興するため中国の国民的民族楽器である二胡を革新の対象に選び
演奏方法などを革新し、二胡の表現力を高め、多くの二胡のための曲を作った。
劉天華の努力のおかげで、二胡はようやく中国高等音楽学院の教程に取り入れられた。

1922年から1932年の10年間、劉天華は北京大学で二胡、琵琶、バイオリンの教授を勤めた。
彼の多くの作品はこの時期に作られた。彼の作品はよく故郷に対する愛や懐かしさを表わし苦悶な情緒と
静かな美を表している。創作の中で民族楽器の伝統的演奏技法を継続した一方西洋の作曲法を参考にし
作品に新しい息を吹き込んだ。劉天華は自ら中国民族音楽を発展させる新しい道を開き、個性に富んだ
作品を沢山作った。
1032年5月、病に倒れ、6月8日に逝去した。劉天華、享年38歳であった。

劉天華作曲十大名曲

1. 病 中 吟(1918年)
The Sound of Agony
2. 月 夜(1924年8月)
Moonlingt Night
3. 苦悶之謳(又名:苦中樂 1926年8月)
Song of Depression
4. 悲 歌(又名:処世難 1927年)
Elegy
5. 良 宵(又名:除夜小唱 1928年1月22日)
A Ditty on the New Year Eve(Nocturnal Peace)
6. 閑 居 吟(1928年6月)
Meditation in Retirement
7. 空山鳥語(1928年6月)
Song of Birds in a Desolate Mountain
8 . 光 明 行(1931年春)
Towards a Bright Future
9 . 独 弦 操(1932年1月2日)
Melody on a Single String
10. 燭影揺紅(1932年5月11日)
Dancing by Candlelight